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曾祖父の掲載に感謝

 投稿者:佐藤  投稿日:2012年 6月30日(土)17時32分18秒
   曾祖父佐藤嘉兵衛は、明治17年、湧洞駅逓を営んでいたと伝えられております。明治43年、曾祖父の葬儀において、依田勉三翁は社員を派遣し葬儀を取り仕切りって戴いた事の記載があり、隣人以上の関係と思っています。現在、佐藤嘉兵衛没100年記念史を発行すべく取材中であり、松本晴雄様の著書を精査しており,佐藤嘉兵衛や佐藤の名が出る度に感動しています。記念誌資料は、町史や北海道植民状況報文などの公文書が頼りであり、ご協力の程、宜しくお願いを致します。  
 

鈴木銃太郎の開拓地から

 投稿者:吉田政勝メール  投稿日:2011年 5月14日(土)09時08分20秒
  鈴木銃太郎の開拓地の芽室町に住んでいます。定年になり、あらためて、わが町のパイオニアについて調べてます。100枚ほどの短編を書きました。彼の日記を読むと、下美生に住んでいた、わが祖父中島和一郎と交流あることに驚きました。私の祖父とその妻は離婚したので祖母の旧姓の吉田に戻りました。中島の方の話では中島みゆきの祖父武一とも血縁あるとかで半信半疑です。銃太郎さんはアイヌの女性と結婚し、常磐と改名しました。五男2女に恵まれて、皆優秀な方です。長女の美世はアメリカへ渡り病死。2女はロシア、中国の通訳者です。銃太郎はキリスト教の牧師さんでした。開拓地でも博愛精神発揮で周りに慕われた立派な人です。渡辺勝は義弟、カネの兄、父は親長。明治15年に勉三、銃太郎は入植地の選定に帯広に入り、銃太郎のみ残り、翌年に晩成社の一団が入地しました。  

渡辺 勝のこと

 投稿者:小針 志四郎メール  投稿日:2010年 9月20日(月)10時46分28秒
  父が知る渡辺勝は酒飲みで道端に寝転がっている老人とのこと。

祖父が勉三翁と同じ南伊豆の出身で、明治37年晩成社山田彦太郎氏を頼り、音更へ入植しました。
父(大正4年生まれ)が然別尋常小学校へ通っていたころは、氏はいつも道端で酒を飲んだまま寝転んでいたとのこと。
私が学校の教科書に登場っする渡辺勝のイメージとは全く違うことに驚いたものです。
描く大志との落差は想像を超えるものがあったのでしょう。

貴殿の貴重な記録の数々ありがとうございます。
 

朝日新聞に載りました

 投稿者:松本晴雄  投稿日:2008年11月27日(木)06時05分27秒
  11月18日朝刊に載りました。

 黒船来航の年に松崎町の豪農の家に生まれた依田勉三(1853~1925)は30歳で晩成社を結社し、社員27人と北海道十勝原野に向かった。後に帯広の「開拓の父」とたたえられる勉三は、苦労する必要のない郷里を離れ、なぜ北の大地に賭けたのか。イナゴの大群、凶作、飢饉。失敗と苦難の人生だったが、不撓不屈の精神の歴史でもあった。

 映画「新しい風」(04年)の原作小説「若き日の依田勉三」の著者で映画監督の松山善三さんは、「一攫千金を望むなら、もっと有利で安易な開拓の道もあった。(略)彼らの心底に燃え続けた思いは、何か。そう考えると、皆目分からなくなる」と書いた。

 地元の郷土史家松本晴雄さん(72)は、勉三が残した日記を丹念に追い、実像に迫る一代記「風吹け 波たて」を著した。「名主を継いだ兄で実業家・教育家の依田佐二平(1846~1924)への劣等感もあったろうが、この地に早くから自由民権運動が起きたように、外の文化に立ち向かう『開かれた精神』風土が勉三を育てた」と松本さん。「無用者変じて有用の者ならん」とした勉三の志を「まだ学ぶところがたくさんあります」という。

 勉三の生家に近い道の駅「花の三聖苑」の施設「三聖会堂」で、勉三に出会うことができる。土屋三余、依田兄弟の「3偉人」をたたえ、勉三の「語り部」松本さんが彼の十勝開拓精神を紹介している。

 三聖苑そばの中川小学校で毎年11月「三聖祭」が開かれる。卒業を控える8人の6年生は、勉三の開拓劇の脚本を書き、演じようと10月の勉強会で講師の松本さんからその志を学んだ。佐二平が創立し、勉三も教えた下田市の旧下田北高(現在の下田高、当時は豆陽学校)では99年の創立120年を機に生徒が学校のルーツを学び、修学旅行で勉三の十勝平野での足跡をたどった。新生高校でもこの伝統を受け継ぐという。(竹田和敏)



 《メモ》 「三聖苑」は依田兄弟と幕末の漢学者土屋三余(1815~66)を顕彰。兄弟は土屋が開いた「三余塾」の門下生だ。佐二平が1873(明治6)年に私財を投じて建てた公立小学校「大沢学舎」が復元されている。直径11㍍の花時計が時報ごとに違う曲を流し、日帰り温泉施設「かじかの湯」(大人500円、小学生300円)もある。問い合わせは☎0558・42・3420)へ。

 生家は現在、大沢温泉ホテルに。松本さんの著作はホームページ「ようこそわが囲炉裏端へ」で公開している。

http://www1.ocn.ne.jp/~iroribe/

 

HOMASに勉三翁が

 投稿者:松本晴雄  投稿日:2008年 4月18日(金)06時01分21秒
  皆様は、北海道と米国マサチューセッツ州と関係あるのをご存じでしょうか。
勉三翁も感動、十勝開拓への動機となった「ケプロン報文」、そのケプロン氏が同州出身という関係からです。クラーク博士も同州出身者です。
その「北海道・マサチューセッツ州協会」の機関誌「HOMAS」に、翁が紹介されました。北海道側からみた翁が描かれています。次のアドレスより入り、「ニューズレター」53号を開いてください。
http://www5.ocn.ne.jp/~homas/

http://www1.ocn.ne.jp/~iroribe/

 

囚人ではありません

 投稿者:松本晴雄  投稿日:2007年 7月 2日(月)12時09分30秒
  小林さん、本欄への書きこみ有り難う御座います。メールにてこの掲示板に記載されていることを知り、お答えが遅れたことお詫びいたします。
北海道へのご旅行中、勉三翁を知ったとのこと、また私のHPを読まれたこと、嬉しく思います。
さて、勉三翁は監獄に収監されたことは皆無です。監獄との関わり合いは明治28年、帯広に十勝監獄が出来たこと、これは網走刑務所が先で、いわば支所的に出来たということも出来るかも知れません。
実は、十勝監獄が出来たことで(受刑者1,300人、職員267人)、囚人達が道路、産業を興したり、御用商人が集まってそれまで開拓がはかばかしくなかった十勝の開拓が進んだという経緯があるのです。
網走刑務所の囚人たちも、北海道の動脈といえる道路工事に関わったことです。

お答えになったか分かりませんが、またご記入くださればお答えします。
 

依田勉三との出会いと疑問

 投稿者:小林 茂メール  投稿日:2007年 6月29日(金)14時26分5秒
   私はこの6月12日から10日間、道東、道南地区のドライブ旅行をした者です。初めての北海道でした。各地のお土産屋さんに六花亭のバターサンドが目に入り、食してみたところ大変濃厚な味に感激しました。そして、その包装箱の解説書の中に「依田勉三さん」の名前を記憶しました。
 旅の中ほどで、網走の監獄博物館(正式の呼び名かどうか不明です。)に立ち寄り、監獄の歴史資料を読んでいたところ、「依田勉三さん」の名前が出てまいりました。二度目の出会いでした。私の記憶によれば、そこには慶大出身のインテリ収監者、依田勉三・・云々と記載されていたので、私はてっきり彼は政治犯か何かで収監されており、出獄後に現在の六花亭の創業に尽力された人物と理解して、北海道を後にしました。
 その後帰宅してから、「依田勉三さん」のことが頭に残りインターネットで彼の偉業なりを知るに及び、私は彼のことを誤解していたことに気がついた次第です。
 そこで私の新たな疑問ですが、彼は監獄に収監されていたのかどうかです。彼の経歴や偉業の数々は知ることが出来ましたが、そこには網走監獄に収監されてた記載は見出せなかったからです。
 

今になっても嬉しいメール

 投稿者:松本晴雄  投稿日:2006年11月23日(木)09時44分5秒
  メール、有り難く拝読しました。
ところで拙書「風吹け、波たて」の本でございますが、日経新聞での記事により、瞬く間に完売しました。
全国紙のすごさを感じた次第です。本社における当(6月)月問い合わせ軒数も、全記事中3位だということでした。
ということで、手元に本がないのが実情です。この全部をネットで公開していますので、その方でお願いします。
申し訳ありませんがご了承してください。
 

どうも

 投稿者:松崎町民  投稿日:2006年 9月13日(水)14時21分59秒
  こんにちわ  

中島みゆきの祖父・武市

 投稿者:囲炉裏端  投稿日:2006年 5月18日(木)09時43分30秒
  中島 武市(なかじま ぶいち、1897年1月30日 - ? )は、実業家。岐阜県土貴村(現在の本巣市)出身。岐阜県立岐阜商業学校卒業。岐阜県本巣市名誉市民。シンガーソングライターの中島みゆきは孫。

 母の弟は松方財政の推進者で大蔵次官を務めた男爵・郷純造。純造の子が日商会頭の郷誠之助。武市と誠之助はいとこ同士にあたる。 「拓聖 依田勉三傳」に中島武市の伝記も収録されている。

1914年に岐阜商業を卒業した後、大阪の呉服問屋に丁稚奉公に出る。その後名古屋の株屋を経て北海道に渡り、旭川で書店に勤める。その後帯広に移り、1920年に「古着商中島商店」を開くが、間もなく屋号を「みつわ屋」と改める。1921年頃に結婚。1924年には長男・真一郎(中島みゆきの父)が生まれる。

1936年に帯広商工会の副会頭になり、1939年には帯広市実業連合会長・十勝商工会連合会頭に就任。1942年には帯広市議会議員に当選した。1943年9月には帯広商工会議所会頭(~1950年11月)となり(1943年10月~1946年9月までは北海道商工経済会帯広支部長)、1954年には帯広ロータリークラブ会長も務めている。

1955年8月には帯広市長選挙に出馬するが落選。1959年には帯広市議会議員に返り咲き、1963年から帯広市議会議長。1965年には全国市議会議長会常任理事、翌1966年には同代表監事に就任した。

帯広市にある中島公園は、武市が建設したものである。
                          (インターネット百科事典より)

http://www1.ocn.ne.jp/~iroribe/

 

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