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いいのかな〜

 投稿者:通りすがり  投稿日:2009年 9月12日(土)10時41分13秒
  通報 返信・引用 編集済
  と、思いつつBOKUDEN2号の原稿を少しづつUPします。
マァ、版元もその筋の方なので許してくれるでしょう。
なんと!ゲラ刷りのタイトルは「ネパールのチェ・ゲバラに会いに行く!」になっていたのは、ちょっと気恥ずかしい。
15〜6ページ貰ったので、何回かに分けて書き込んでいたら発売されるでしょうw

一昨日、カトマンズでは、マオバティの大規模集会があり一日中、混乱したらしい・・・




かって1960〜70年代、日本の若者達は、既成左翼(社会党・共産党等)に背を向け新たな革命運動を模索した。
当時、第3世界の民族解放闘争の高揚とアメリカ帝国主義の暴虐無尽さゆえ、客観的世界情勢が彼らの運動を後押しした。しかし、彼らの輝かしい夢は、夢として潰え去った。
彼らが求めたものは、哲学的で高尚なものであったが、きわめて観念的でその土台を作る作業が、欠落していた。そして、客観的情勢の後退と共に、運動は、衰退していった。

時代を超えて1990年代初め、ネパールにおいて10数人の若者が、既成政党であるネパール共産党に反旗を翻し共産党・毛沢東主義派を結成し山岳地帯にその拠点を求めた。
しかし、客観的世界情勢は、ロシア・東欧の社会主義国が崩壊する時代であり、中国でさえ市場原理を導入し変質していた。客観的情勢が後押しするはずもなく、孤独な闘いが要求されていった。
それでも彼等は、客観的情勢は自ら創り出すものと空間にこだわり、小さなエリアから変革の一歩を踏み出した。それはあたかも、1970年前後、世界の既成左翼に別れを告げ、自らの闘いを組織した先進国革命勢力に相通ずるものがあるように思われる。
そして、21世紀、彼等は世界ではじめての暴力による社会主義革命を実践した。

歴史

当初、ネパールの革命運動は、ネパール国民会議派及びいくつかの共産主義者政党によって闘われていた。しかし、この国独特の「パンチャヤト体制」(注1)は、強固で一切の民主主義的反抗を封じ込めた。国王は、絶大な権力を誇り、変革運動は徹底的に弾圧され、彼等は、インドに亡命し運動を展開するという、極めて影響力を持たない運動しか組織できずにいた。
しかし、1990年、ネパール国民会議派及び7つの共産主義者政党によって左翼統一戦線が結成され、国内において民主主義運動が起こると、そのうねりは、またたく間に全土を席巻した。
民衆は、積年の恨みを晴らすかの様に「王宮へ!」を合言葉に王宮通りを巨万の民で埋め尽くした。これら一連の闘いによって支配階級=国王派は、妥協せざるをえなくなり、複数政党制の導入、「パンチャヤト体制」の廃止を宣言した。
形式的には、立憲君主制=民主主義が到来したかの様相ではあったが、国王の権限は依然、強大でそれを国軍が支えるという構図は、何も変わることがなかった。
複数政党制になり普通選挙が行われ、ネパール国民会議派が第一党となり政府を組織するが、この党自体がインド国民会議派の傀儡であり、アーリア系民族が特権的階級を形成していた。ヒンディー教を基礎にしているこの政党に差別の根絶、平等社会の構築を求めること自体が無理なことであった。そして、彼等は、賄賂の自由を謳歌し自らの私腹を肥やすことにしか目を向けなかった。
その様な政府に対し共産党マルクス・レーニスト(通称マレ、後の共産党統一派)は、徐々に力を貯え、ネパール国民会議派を政権の座から引きずり落ろした。
マレが政権を担うと、誰でもが「本当の民主主義が来る!」と、期待に胸を膨らませた。
しかし、現実は、ネパール国民会議派のそれと何も変わることが無かった。
人々は、マレを称して「民主主義をもたらしてくれたかい?」
「勿論!彼等は誰でもが賄賂を受け取る自由をもたらしてくれたよ!」とまで揶揄するようになった。
一方、1990年、武装闘争によって革命を目指す10人ほどの若者が共産党毛沢東主義派を結成し既成左翼に叛旗を翻した。
そして、山岳地帯ロルパにその拠点を構築し武装闘争を開始した。
彼等は、毛沢東主義派を掲げてはいるものの戦略的には、持久戦と都市ゲリラ戦を合体させたものと言っていいだろう。(戦略的には、センデロ・ルミノソ路線を採用)
山岳地帯の村において、カースト制度の全廃、教育の徹底、男女差別の根絶、食糧の共同生産・分配を通じ意識改革を行っていった。その生活形態は、瞬く間に、無知・貧困に喘ぐ山岳地帯の人々の支持を得、10年足らずで全土の60%を支配下に治めるまでになった。
これら圧倒的に支持された原因のひとつに、人種の問題もあると思われる。
ネパールは、人口2,500万人弱にも関わらず、65民族がひしめき合い。上位カーストは、ブラーマン、チェットリといったアーリア系であり、その他の我々と同じビルマ・モンゴロイド系の60あまりの民族は、常に後方に追いやられていた。
山岳地帯や痩せた土地には、ビルマ・モンゴロイド系の人々が多く暮らし、彼等は常に飢えと貧困にさいなまれており、国王を頂点とするアーリア系の人々に内心、敵愾心を持っていたと言っても過言ではないと思われる。
彼等は、貧弱な武器ではあるが、その強固な意志によって次々と国軍や警察署、そして地方行政府を武装攻撃し、首都圏には、労働組合を組織し中央政府に圧力をかけた。
2001年、思わぬところから大攻勢の火蓋が切られた。
国王ビレンドラ一家と弟ギャネンドラ一家の晩餐会中、ビレンドラ国王は、我が子ディペンドラ王子によって射殺される。それもビレンドラ一家全員である。一方、ギャレンドラ一家は、誰一人けがさえ負うことなく無事であった。犯人とされるディペンドラ王子は、その場で射殺され、国王は、ギャネンドラが即位した。
この事件は、ネパールの国内を大きく揺るがした。かってより数々の悪事を行って評判の悪かったギャネンドラが国王に即位することで、親国王派や一般国民もその真偽を大きく疑った。
すぐさま即位したギャネンドラは、政府閣僚を解任し、親王政政権を樹立するに至った。
主要6政党は、民主闘争を組織するが、ギャネンドラの前に決定的な闘いを組織することができなかった。
一方、共産党毛沢東主義派と人民戦線ネパールは、武装闘争と首都圏における大衆実力闘争を組織することで、さらに、その力をより強固なものにしていった。
2006年には、すでに全土の80%を実効支配するに至り、国王派も妥協の道を選ばなければならないところまで追いつめられた。
同年5月、共産党毛沢東主義派は50万人とも100万人ともいわれる国民と共に首都カトマンズに無血入城するにいたる。
現在、国王の幾多の策謀も全く通じず、制憲議会選挙が行われ、国王位剥奪、連邦共和国が樹立された。

写真は、最も武勇をはせる人民革命軍第3師団のキャンプ
 
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